その仏像は、海を渡ってきた
いまから千五百年ほど前。
この国に、見たこともないものが届きました。
金色に輝く仏像と、経典の巻物です。
送り主は、朝鮮半島の国・百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)。
受け取ったのは、欽明(きんめい)天皇。
538年、あるいは『日本書紀』にしたがえば552年。
これが、日本への仏教伝来の公式な日付とされています。
つまり日本の仏教は、百済からの贈り物として始まったのです。
けれど、届いただけでは、何も広がりません。
この新しい教えを受け取り、国の柱にしようとした人がいました。
受け取ったのは、あの人
聖徳太子です。
「和を以て貴しと為す」の言葉で知られる、あの人物。
太子は、海の向こうから来た仏教を、この国に根づかせようとしました。
四天王寺を建て、法隆寺を建て、みずから経典を講じたと伝えられています。
さて、ここで問題です。
その聖徳太子の伝説が、日本でいちばん多く残っている土地は、どこでしょう。
奈良でしょうか。大阪でしょうか。
実は、——滋賀県です。
太子の開基と伝わる寺院の数は、滋賀が全国一とされています。
そして滋賀のなかでも、とりわけ伝承が濃いのが、この東近江の一帯なのです。
四十八の寺を建てる、という誓い
太子は、近江に四十八の寺を建てるという誓いを立てた——そう伝えられています。
四十八という数は、仏さまが立てられた誓いの数にちなむとも言われます。
その満願の寺、つまり最後の一寺と伝わるのが、東近江市の石塔寺(いしどうじ)です。
願いが成就した寺という意味で、「本願成就寺」とも呼ばれました。
この寺の境内には、いま、数万基におよぶ石塔がぎっしりと並んでいます。
その中央にそびえるのが、高さ7メートルを超える三重の石塔。
日本でも最古級、そして最大級の石塔です。
この塔の様式は、日本のものではなく、朝鮮半島の百済の様式に近いと指摘されてきました。
誰が、いつ、何のために建てたのか。
いまも決着はついていませんが、聖徳太子の影が見えます。
瓦、十万枚。そして、この山
さて、いよいよ太郎坊宮の話です。
太郎坊宮のすぐ隣、箕作山の中腹に、瓦屋寺(かわらやじ)というお寺があります。
この変わった名前には、由来があります。
聖徳太子が大阪に四天王寺を建てたとき、その屋根に葺く瓦——十万枚をこえる瓦を——この地で焼かせたから、というのです。
想像してみてください。
千四百年前、この山のふもとで、いくつもの窯から煙が立ちのぼっている。
焼き上がった瓦が、来る日も来る日も、大阪へと運ばれていく。
東近江は、日本の仏教の出発点を支えた、いわば一大生産地だったのです。
そして、由縁書はこう伝えています。
太郎坊宮の始まりは、聖徳太子がこの地で瓦屋寺を開いたときにさかのぼる、と。
つまり——。
この山の物語は、海を渡ってきた仏教と、それを広めようとした太子の事業と、同じ場所から始まっているのです。
百済寺という、名前
その太子が、推古14年(606年)に開いたと伝わるのが、百済寺です。
寺伝によれば、太子は百済の龍雲寺という寺をお手本にして、この寺を建てました。
そのとき、百済から来た僧たちが、開創に深く関わったと伝えられています。
だから、この寺は「百済寺」なのです。
いまも、この寺の庭は「天下遠望の名園」と呼ばれています。
庭に立つと、視界が西へ大きくひらける。
湖東の平野、琵琶湖、その向こうに比叡の山なみ。
——そして、その先に、百済がある。
そして、その国が滅びた
仏教を贈り、寺のお手本となり、僧を送ってきた百済。
その国が、660年に滅びます。
日本は救援の軍を送りますが、663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗。
百済という国は、地上から消えました。
行き場を失った人々が、海を越えて逃れてきます。
彼らはどこへ行ったのか。
由縁書は、こう記しています。
天智天皇4年(665年)、百済の人およそ400人が神崎郡へ。
同8年(669年)には、700人余りが蒲生郡へ。
——神崎郡と蒲生郡。いまの東近江市と、その周辺です。
太郎坊宮のふもとに広がるこの平野は、国を失った人々が新しく暮らしはじめた土地でした。
彼らは、当時の最先端の技術を持っていました。
硬く焼き締めた須恵器(すえき)の窯。金属。織物。土木。
百済以外にも、渡来人の痕跡は、たくさん残っています。
由縁書に紹介される「金柱宮(かなばしらのみや)」。
新羅の人が建てた持仏堂の金の柱として、平安時代の歌謡集に詠まれたと伝わる社です。
さらには「高麗寺(こまでら)」という名の寺跡。
高麗は、高句麗のこと。
湖東の丘陵に眠る、いくつもの古い窯の跡。
地名に、寺の名に、焼き物のかけらに。
この土地には、海を渡ってきた人々の記憶が、いまも埋まっているのです。
夕日の方角に、故郷があった
ここからは、ひとつの見立てです。
地図をひらいて、百済寺のあたりに指を置いてみてください。
そのまま、まっすぐ西へ指をすべらせます。
琵琶湖を越え、京都を越え、出雲を通って海を渡り——朝鮮半島へ。
すると、百済の首都「扶余(ふよ)」があったあたり、ほとんど同じ緯度でたどり着きます。
さらに西へ進めば、秦の始皇帝が作った西安。かつての長安、シルクロードの東の終着点です。
もちろん、当時の人が緯度を測れたわけではありません。
けれど、こう考えることはできないでしょうか。
故郷を失い、この土地に住むことになった人が、夕暮れに西の空を見た。
あの陽の沈むほうに、帰れない国がある——。
そう思いながら手を合わせる場所として、あの庭は選ばれたのかもしれません。
「天下遠望の名園」。
その「遠望」とは、景色を眺めることだけを言うだけではなかったのかもしれません。
天狗の正体、三つめの答え
ここで、第1話に戻ります。
天狗とは何者か。
これまで、二つの答えを見てきました。
ひとつは、空を舞う大きな鳥。イヌワシやクマタカの姿。
もうひとつは、山にこもって修行した山伏たちの姿。
そして、三つめ。これも、ひとつの見立てです。
海を越え、山を越えて突然あらわれ、見たこともない技術を使い、言葉も装いも違う人々。
手に仏教の経典を持ち、土を焼き、鉄を打ち、水の流れを変えてしまう人たち。
その姿を見た土地の人が、畏れと敬いをこめて、こう呼んだとしたら——。
天狗とは、山と海の向こうから来た、自分たちより大きな力を持つ人々に、畏敬の念を込めて与えられた名前だったのではないか。
証明はできません。
けれど、この山の始まりが聖徳太子の伝承と結ばれていること、そのふもとで海を渡ってきた人々が暮らしていたこと。
この二つが同じ平野の上で重なっているのは、確かなことなのです。
さて、こうして海の向こうから来た仏教は、この国の神々と長い時間をかけて溶け合っていきました。
けれど明治になって、国はそれを分けさせます。
太郎坊権現が「阿賀神社」となったのも、そのときのことでした。
——それで、神と仏は、別れてしまったのでしょうか。
次回、第11話。
山が燃える、夜の話をしましょう。
