SAVE TAROBO PROJECT
まなぼう たろぼう ─ 第12

汽車と、飛行機と、千基の鳥居

連載 きてやたろぼう/文・前川 真司

汽車が、来た

時代は、大正時代になります。

1913年(大正2年)12月29日。

太郎坊宮の最寄りに、「太郎坊駅」が開業しました。

汽車で、太郎坊さんへ行ける。

これは当時、たいへんなことでした。

参拝者はぐんと増えます。

年末年始や祭礼の日には、臨時列車も走りました。

由縁書には、こんな記録が残っています。

一月一日、午前一時に太郎坊駅を発車し、一時二十分に近江八幡駅へ着く——という深夜便。

元日の午前一時です。

初詣の人たちが、真夜中の汽車に揺られて帰っていく。

百年前の正月の、真夜中の光景です。

さらに、太郎坊宮を信仰する人たちの団体には、運賃の割引券まで発行されました。

そして参拝者が増えすぎて駅舎が手ぜまになると、太郎坊宮の役員たちが連名で鉄道会社に改築を申し入れています。

神社の人が、駅の改築を頼みに行く。

この山と、この町の暮らしが、どれほど近かったかが分かります。

そして、飛行機の時代へ

大正から昭和にかけて、この平野にはもうひとつ、驚くものが現れます。

飛行機です。

太郎坊宮のふもとに、八日市飛行場ができました。

日本初の民間飛行場。

由縁書によれば、往時は日本一の広さを誇ると称された、巨大な飛行場だったといいます。

前回、明治時代の「強い国をつくる」という道の話をしました。

その道は、軍備の増強へと進んでいきます。

この飛行場も、やがて軍のものになりました。

そして、由縁書にはこう記されています。

この八日市飛行場から離陸する軍用機は、太郎坊宮の夫婦岩を目指す形で飛び立っていった。

千年以上、人々が「勝利への祈り」をこめて見上げてきた岩。

その岩が、軍用機の離陸の目印になっていた。

いっぽうで、こんな話も残っています。

太郎坊宮の社殿が完成したとき、飛行場の航空隊がお祝いの奉祝飛行をしてくれたこと。

年に一度の飛行場まつりでは、基地が開放され、隊員たちの仮装行列や、東近江名物の大凧揚げでにぎわったこと。

そして、飛行場に勤める大勢の人たちにとって、太郎坊宮は憩いの場だったこと。

軍の飛行場と、勝運授福の天狗の山。

この二つは、思いのほか近い場所にありました。

戦争が、この山にも来た

太郎坊駅が開業した3日後の1914年。いよいよ、第一次世界大戦が始まります。

この山も、無関係ではいられませんでした。

由縁書によれば、太郎坊宮では宝刀や宝剣が供出されました。

金属が足りないから、差し出しなさい、という国の指令です。

何百年も伝えられてきた宝物が、武器の材料として運ばれていきました。

わずかに残ったものも、戦後の占領政策で壊されたといいます。

あの賑やかだった太郎坊駅も、戦争の最末期には業務を休止しました。

再開されたのは、戦後の1949年(昭和24年)のことです。

汽車が来て、飛行機が飛び、そして戦争が来た。

この山のふもとで起きたことは、日本の近代そのものでした。

千基の鳥居

さて、視線を参道に戻しましょう。

太郎坊宮の参道には、たくさんの鳥居が並んでいます。

いちばん多かったとき、その数は千基を超えたといいます。

由縁書は、その様子をこう伝えています。

さながら回廊のようになって、雨水も漏らさなかった、と。

鳥居のトンネルです。

明治時代に描かれた版画にも、その鳥居が細かく描き込まれています。

ここで、考えてみてください。

鳥居は、勝手に生えてきません。

誰かが、お金を出して、依頼して、運んで、建てたのです。

千基を超えるということは、千を超える「祈りと願い」があったということです。

大阪から来た、鳥居

そのなかに、興味深い一基があります。

八風街道から参道へ入るところに立つ、第一鳥居。

建立は1894年(明治27年)。日清戦争が始まった年です。

そして奉納者は——大阪の実業家、土井柾三という人物でした。

大阪の人が、近江の山の入り口に、鳥居を建てている。

前回お話ししたことを、思い出してください。

この時代は、神仏分離と廃仏毀釈と富国強兵の嵐が吹き荒れた直後です。

そんな時期に、遠く大阪の商人が、この山に鳥居を奉納していた。

そして、明治13年(1880年)の舞台。

明治25年(1892年)の大鳥居。明治27年(1894年)の第一鳥居。

時代の変化の嵐のなかで、この山には次々と新しいものが建てられていたのです。

地元の人だけではありません。

遠くの町の人たちも、この山を支えていました。

霜の日も、雪の日も

ではなぜ、こんな遠くの人まで、この山を知っていたのでしょう。

ひとりの人物の名前が、由縁書に残っています。

武久隆佑(たけひさりゅうすけ)。

蒲生郡の生まれで、家業のお茶の商売を継いだ人です。

この人は、たいへん信心深い人でした。

霜の降りる日も、雪の降る日も、欠かさず太郎坊宮にお参りしたといいます。

そして茶の商売で各地を回りながら、行く先々で太郎坊さんのご利益を説いて歩きました。

神を敬う心こそ、いちばん大切にすべきものだ、と。

こうして生まれたのが「赤明講(せきめいこう)」という団体で、これがのちに、太郎坊宮の最大の崇敬団体へと育っていきます。

石段の入り口に、この人をたたえる石碑が建っています。

大正12年に建てられたものです。

いま、あなたが石段を登りはじめるその場所に、百年前の商人の名前が、静かに立っています。

縄を綯う人、鳥居を建てる人

支えてきたのは、有名な人だけではありません。

由縁書には、いくつもの「講」が紹介されています。

注連縄講(しめなわこう)。境内の社殿や鳥居に張る注連縄を、手作業でつくる人たちです。

その数、百近く。夫婦岩に張られる注連縄は、数十メートルにもなります。

材料の稲わらは、五月の御田植大祭で植え、秋に刈り取った、この山の御神田のもの。

鳥居講。鳥居を奉納することを目的に結成された講です。

社守講(やしろもりこう)。

かつて神社を守る役をつとめた家の子孫たちが加わり、一年ごとに当番を回していきます。

日供講、献灯講、献茶講、献菊会。

毎日のお供え。灯り。お茶。菊の花。

それぞれの人が、それぞれの得意なものを持ち寄って、この山を支えてきたのです。

この賑わいは、人がつくった

汽車が来たのも、駅が改築されたのも、鳥居が千基並んだのも、注連縄が毎年新しくなるのも。

ぜんぶ、人がやったことです。

山は、そこにあるだけでは賑わいません。

神様も、放っておかれれば、忘れさられ、朽ちていきます。

千四百年のあいだ、この山が生きつづけてきたのは——。

その時代その時代に、「太郎坊さんのために何かしよう」と考えた人が、必ずいたからです。

茶の商人がいた。大阪の実業家がいた。縄を綯う人がいた。汽車を走らせた人がいた。

そして、いま。

この山には、146年前に架けられた舞台があります。

そろそろ、手を入れなければならない時期に来ています。

次に、この山を守る番は、いったい誰でしょうか。

次回、第13話。

この山の、いまの一年を見に行きましょう。

この話の入口になった「なぞ」

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