その岩、何歳?
太郎坊宮の参道を登っていると、道の脇、山の斜面に、巨岩が次々と現れます。
人の背丈をはるかに超える岩。山頂近くでは、社殿が岩壁にしがみつくように立っています。
さて、クイズです。この岩たちは、いったい何歳でしょう。
百歳? 千歳? 一万歳?
答えは——約七千万歳。
ティラノサウルスなどの恐竜が生きていた、ジュラ紀・白亜紀(はくあき)の終わりごろに生まれた岩なのです。
東近江の地図が、巨大火山だった?
今から約7000万年前、いまの湖東地域では、想像を超える規模の火山の大噴火が起こりました。
熱い火山灰や軽石、岩のかけらを含む火砕流が、地面をのみ込むように広がる。それらが厚く積もり、熱と重みで押し固められて、一枚の硬い岩になりました。
赤神山をつくる「湖東流紋岩(ことうりゅうもんがん)」です。由縁書では、赤神山はこの湖東流紋岩と、そこへ入り込んだ花崗斑岩(かこうはんがん)からできている、と説明されています。
ただし、赤神山の頂上に、富士山のような火口があったわけではありません。
火山活動の舞台は、鈴鹿の山麓から湖東平野まで及ぶ広大な地域。激しい噴火のあと、地面が大きく落ちこんでできた火山跡が「湖東カルデラ」で、その規模は、現在の「阿蘇のカルデラ」に匹敵したとも考えられています。
山ひとつではありません。
町も、田んぼも、むかしの琵琶湖も入る——“県域サイズの火山”だったのです。
太郎坊の石は、滋賀県代表
さらに、驚くことがあります。
湖東流紋岩は、日本地質学会が選んだ「滋賀県の石」。つまり、滋賀県を代表する岩石です。
県代表の石が、博物館の展示ケースの中だけでなく、赤神山そのものとして目の前にそびえている。太郎坊宮を訪れる人は、知らないうちに“滋賀県の大地・岩石の代表選手”の上を歩いているのです。
あの夫婦岩(めおといわ)も、この湖東流紋岩からできています。熱い岩が冷えて縮むときに生まれた割れ目「節理」が、長い時間をかけて発達し、二つの巨岩のあいだの道を形づくったと考えられています。
地質学は、岩がどう割れたかを説明します。
伝承は、その割れ目を見た人が、何を感じたかを伝えます。
人々は、太郎坊大神の神力によって岩が左右に押し開かれた、と語り継いできました。
地球がつくった形に、人が神の物語を重ねた。夫婦岩とは、その二つが出会った場所なのかもしれません。
きょうだい山?——半分正解
安土山、繖山(きぬがさやま)、箕作山、そして近江富士とよばれる三上山。
琵琶湖の東の平野に立ち上がる山の姿はよく似ていて、遠くから見ると“きょうだい山”のようです。
でも、ここに小さなどんでん返しがあります。
赤神山を含む箕作山系や安土山のあたりは、湖東流紋岩が分布しています。ところが近江富士・三上山は、火山生まれではありません。はるかに古い海の底で生まれた「チャート」という硬い岩が、長い侵食に耐えて残った山なのです。
見た目はきょうだい。でも、生まれ方はちがう。
一方は「火の記憶」を持つ山。もう一方は「海の記憶」を持つ山。
そこまで分かると、湖東の景色は、何億年もの記憶を並べた家族アルバムのように見えてきます。
でも、そのころ琵琶湖はなかった
赤神山の岩ができた約7000万年前、琵琶湖はまだ存在していませんでした。
琵琶湖の物語が始まったのは、約400万年前。
しかも最初の湖が生まれた場所は、いまの滋賀県ではなく、三重県伊賀市のあたりです。
では、三重県にあった湖が、どうして今の琵琶湖になったのでしょう。
湖の水が、そのままずるずる北へ動いたわけではありません。古い湖が土砂で埋まる。
その北側の地面が断層の運動で沈む。すると、そのくぼ地に水が集まり、別の湖や湿地が生まれる
——これを何度もくり返しながら、湖の中心は少しずつ北へ移っていきました。
琵琶湖は、約400万年をかけて、形と場所を変えながら“引っ越し”をしてきた湖なのです。
いまの琵琶湖に近い姿になったのは、約40万年前とされています。
赤神山は、古琵琶湖時代の島だった?
湖が北へ旅する途中、いまの蒲生野や湖東平野にも、湖や川、湿地が広がった時代がありました。
由縁書には、赤神山は近江盆地が陥没した際に残された部分であり、「古琵琶湖の島の一つであったとも考えられる」と記されています。
もちろん、赤神山がいつ、どの範囲で島だったのかを、いま断定することはできません。
けれど、想像してみてください。
水の向こうに、三角形の岩山がそびえている。山頂には雲がかかり、空には大きな鳥が舞う。
そんな景色を見た人がいたなら、「あの山には、何かがいる」と感じても、不思議ではありません。
初夏、水田に水が張られると、赤神山はいまでも一瞬、「水鏡の湖に浮かぶ島」のように見えます。
それは古琵琶湖時代そのものではないけれど、何百万年も前の景色を想像する、ロマンの入口になります。
地球がつくった山に、人が祈りを重ねた
由縁書は、太郎坊宮の信仰の始まりを、赤神山や巨岩への原始的な自然崇拝と結びつけて説明しています。赤神山の一部には、いまも禁足地の名残が認められるといいます。
むかしの人々は、湖東カルデラという言葉を知りませんでした。赤神山が約7000万歳だとも、琵琶湖が三重県のあたりから移ってきたとも、知りませんでした。
それでも、平野や水辺から突き出す岩山を見て、ほかの山とはちがう力を感じたのかもしれません。
東近江では、日本最古級・約1万3000年前の土偶も見つかっています。人は縄文の昔から、この平野で暮らし、この山を見上げてきたのです。
火山は、山をつくった。湖は、その山の麓まで旅をした。
人は、山を見上げ、岩に物語を重ねた。
地質学は、山がどう生まれたかを教えてくれます。由縁書は、その山がどのように信仰の場所となったのかを伝えてくれます。二つを重ねると、太郎坊宮の物語は、聖徳太子の時代よりも、天狗の伝説よりも、はるか昔から始まっていたことに気づきます。
こんど太郎坊宮を訪れたら、景色だけでなく、足元の岩にも触れてみてください。
それは、滋賀県を代表する石。恐竜時代の巨大火山が残した、約7000万年前の記憶です。
さて——その岩山に、人はなぜ、742段もの石段を刻んだのでしょう。
次回は、いよいよ自分の足で、「信仰の山」を登ります。
