勝運の神様、といいますが
太郎坊宮は、古くから「勝運の神様」として知られてきました。
スポーツ選手が試合の前に登ります。受験生が来ます。仕事の大勝負をひかえた人も来ます。
けれど、少し立ち止まって考えてみたいのです。
「勝運」とは、いったい何でしょう。
勝ちを願うということは、裏を返せば、誰かが負けるということでもあります。
神様は、その願いをどう聞いておられるのでしょう。
この山には、その答えを考えるための、ひとつの岩があります。
岩に腰かけた、若者
夫婦岩の手前に、大きな岩があります。
「腰掛岩(こしかけいわ)」。
由縁書によれば、この岩に腰をおろして山を眺めたと伝えられているのが、源義経(みなもとのよしつね)です。
平安時代の終わり、平家が世を治めていた時代。源氏の子として生まれた義経は、幼いころに平家に父を討たれ亡くし、京都・鞍馬の山にあずけられて育ちました。
鞍馬での日々を、後の物語はこう語ります。
昼は学問、夜は山に入り、天狗を相手に剣を習った——。
そして少年のころ、鞍馬を出て、東国をめざします。
その道すがら、近江の地で元服し、大人の名「源九郎義経」を名のりました。
そして太郎坊宮に参り、源氏の再興と平家への勝利を祈ったと伝えられています。
このとき、義経はまだ十代です。
身寄りのない少年が、天下を治める平家に立ち向かおうとしている。
勝てる見込みなど、どこにもありません。
その若者が、この岩に腰をおろして、山を見上げた——。
その元服の場所は、ここから見える
では、義経はどこで元服したのでしょう。
太郎坊宮の舞台に立って、平野の向こうを眺めてみてください。
西の方角、田んぼと家並みのはるか先に、こんもりとした山なみが見えます。
そのふもとにあるのが、竜王町の「鏡(かがみ)の里」。
京都と東国を結ぶ街道沿いにひらけた宿場町です。
その鏡の里に、「義経元服池(よしつねげんぷくいけ)」と呼ばれる池が、今も残っています。
東国へ向かう途中、この宿に泊まった義経が、池の水を使って前髪を落とし、烏帽子(えぼし)をつけて大人になった——そう伝えられている池です。
そのすぐ近くに鎮座するのが、鏡神社。
元服を終えた義経は、この神社に参り、源氏の再興を祈ったと伝えられています。
いま、鏡の里は蒲生郡竜王町、太郎坊宮は東近江市。
市と町が分かれているので、まったく別の場所の物語のように聞こえます。
けれど、少し前まで、ここはどちらも「蒲生郡」でした。
そして何より——。
太郎坊宮の舞台からは、その鏡の里の方角が、まっすぐ見わたせるのです。
元服の池も、鏡神社も、そして戦勝を祈った太郎坊宮も。
すべては、ひとりの少年が歩いた、ひとつながりの道の上にあります。
別々の町の、別々の伝説ではありません。
この山から見わたせる範囲で起きた、ひと続きの物語なのです。
兄弟の山を、両方たずねた男
ここで、第1話を思い出してください。
太郎坊宮の天狗は長男坊、京都・鞍馬の天狗は次男坊。
そして、鞍馬の天狗に剣を習ったと語られているのが、ほかならぬ義経です。
つまり義経は——。
弟の山で剣を学び、兄の山で勝利を願ったことになります。
もちろん、これは伝説の話です。
けれど、こう並べてみると、ひとりの少年の旅路が、ふしぎと立体的に見えてきませんか。
勝った者も、負けた者も
さて、その後の義経はどうなったでしょう。
ご存じのとおり、義経は勝ちました。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦。次々と平家を破り、ついに平家を滅ぼします。
太郎坊宮に祈った願いは、まさにかなったのです。
——けれど、物語にはその先があります。
勝ちすぎた義経は、兄・頼朝に疑われ、追われる身となりました。
そして、その転落の始まりもまた、この山から見える範囲で起きています。
壇ノ浦で平家を破った義経は、捕らえた平家の総大将・平宗盛(たいらのむねもり)父子を連れて、鎌倉へ向かいました。
けれど、兄・頼朝は義経を鎌倉には入れませんでした。
やむなく京へ引き返す道中、近江の篠原(しのはら)の地で、宗盛父子は首を落とされます。
その場所が、いまの野洲市大篠原。
「平家終焉の地」と呼ばれ、「蛙鳴かずの池(かわずなかずのいけ)」の伝説が残る場所です。
あまりの平家の無残な最期に、池の蛙さえ鳴くのをやめた——そう語り継がれてきました。
ここで、地図をもう一度見てください。
実はこの池、義経が元服した鏡の池から、歩いて五分ほどしかないのです。
つまり義経は、自分が元服した場所のすぐそばで、平家の物語を終わらせたことになります。
そして、もうひとつ、この一帯には別の名残があります。
「祇王井川(ぎおういがわ)」という用水路です。
平清盛に愛された白拍子・祇王が、水にとぼしい故郷を思って清盛に願い出た。
そうして開かれた水路が野洲の田を潤し、この土地を豊かにしたと伝えられています。
平家に滅ぼされかけた、源氏の少年が大人になった池。
その平家が終わった池。
そして、その平家のおかげで、豊かな水を得た土地。
——近江には、勝った者と負けた者が、同じ風景のなかに、折り重なって眠っているのです。
鏡の里は蒲生郡、大篠原と祇王井川のあたりは、かつての野洲郡。
いまは市も町も郡も分かれています。
けれど不思議なことに、太郎坊宮の舞台から西を眺めれば、そのすべての物語が、ひとつの視界のなかに収まっているのです。
面白いと思いませんか?
さて、その風景を離れた義経は、どうなったか。
兄・頼朝に追われつづけた末に、東北の地で命を落とします。
戦には勝った。けれど、その勝利が、自分を追いつめた。
……では、はたして義経は勝ったのでしょうか。負けたのでしょうか。
ただ、確かなことは、八百年以上たったいまも、私たちは義経の名を覚えています。
そして、この山の岩には、あの若者が腰をおろしたという伝説が、いまも残っている。
勝ち負けというのは、案外、その場かぎりで決まるものではないのかもしれません。
最後に、ひとつだけ。
義経を追いつめたのは、平家ではありませんでした。
平家は、すでに滅んでいたのですから。
——では、何だったのか。
その答えは、この連載のもう少し先で、あらためて考えることにしましょう。
いまは、こう言っておきます。
いちばん手ごわい相手は、たいてい、外にはいないのです。
願う前に、登らせる神社
話を、いまの私たちに戻しましょう。
太郎坊宮にお参りしようと思うと、742段の石段は避けられません。
さらに、狭い夫婦岩をくぐらなければ、本殿にはたどり着けない。
考えてみると、これは少し不思議な構造です。
「勝たせてください」とお願いする前に、まず自分の脚で登れ、というのですから。
息が上がる。汗が出る。途中で足が止まる。それでも登る。
本殿の前に立ったとき、あなたはもう、ひとつ何かをやりとげています。
勝たせてもらう前に、小さな勝ちをひとつ、自分で取っている。
この山の勝運は、どうやら、そういうかたちをしているようなのです。
